石川遼人気でゴルフブーム?
石川遼人気で第3次ゴルフブーム?
16才の高校生プロが見事(2008年)本年4月17日から行われた、自身のプロとしてのツァー初戦、かつ男子プロの開幕戦、東建ホームメートカップで5位となりました。
ヨネックス、パナソニック、トヨタなど契約スポンサー9社からの契約金は約23億円といわれております。ツァーデビュー前の契約金としては宮里藍の3億円を遥かに上回る金額です。
かなり気が早いのですが、石川遼クン人気でゴルフブームの予兆を感じましたので、戦後のゴルフブームを振り返り、ゴルフ人気がホンモノになるか、今後を占って見たいと思います。
第1次ブーム 中村寅吉 が活躍
第2次ブーム ジャンボ尾崎が活躍しました。
筆者は遼クン出場予定の(H20年)5月15〜18日に開催される、「日本プロゴルフ選手権大会」にて“生(ナマ)遼クン”を見て来る予定です。
「日本プロゴルフ選手権」
概要 : 日本のプロゴルフメジャー大会の一つ。日本最古の歴史と伝統を誇るこの大会は1926年に創設された。日本のゴルフ界をリードした名選手を多数輩出。名実ともに日本プロゴルフ界の頂点を極めるビッグトーナメント。優勝選手は、向こう5年間の日本ゴルフツアー機構の公認試合(メジャー大会含む)の無条件シード出場ができる。
開催ゴルフ場 : レーサムゴルフ&スパリゾート
本当に遼クンが“ゴルフブーム”をつくれるのかこの目でしっかり見て来たいと思います。
レジャー白書2007(社会経済生産性本部発行)によると06年にコースに出てプレーした人は前年比17.6%減の890万人で調査開始以来の最低の水準とのこと。
ピーク時1300万人ほどあったといわれており、ゴルフ人気の落ち込みがゴルフ業界関係者の危機感を募らせました。
(東京・首都圏は堅調。東京都のゴルフ会員権ご参照下さい。)
ただし、もし“ゴルフブーム”になったとしても先行き不透明、人口減少・低成長の時代になり、賃金の上昇、会社の接待費の増加が期待できないので、先のブームと違って“静かなブーム”になりそうです。
接待需要がほとんどなくなり
スポーツとしてのゴルフを楽しむ時代になりました。
アスリートゴルファーの時代になったようです。
オリックスゴルフマネジメントが募集したきみさらずゴルフリンクスはわずか2ヶ月で350名集まったとのことです。
アクアライン経由で横浜・川崎から40〜50分の近さ。
ピートダイ設計のコースがアスリートゴルファーを魅了したようです。
遼クン人気と直接関係ありませんが、今までなかったゴルフ業界のグッドニュースです。
石川遼人気でゴルファーの増加、ますますのゴルフ会員権を購入してゴルフを楽しむ層の増加を期待したいと思います。
第1次ブーム中村寅吉の時代
2008年2月11日、日本プロゴルフ界の父・中村寅吉さん死去。
戦後のゴルフブームを巻き起こしたプロゴルファーの中村寅吉氏が2月11日亡くなりました。92歳でした。中村氏は「寅さん」の愛称で親しまれ、引退後も指導者として多くのプロを育て、日本プロゴルフ界の発展に寄与してきました。
「中村寅吉」の名が国内外に知れ渡ったのは今から半世紀前、埼玉・霞が関CCでおこなわれた57年(昭和32年)のカナダ杯でした。
カナダカップ(現・ワールドカップ)は、戦後初の国際競技でした。
中村は小野光一と日本代表として出場し、個人優勝と団体優勝をやってのけました。
世界の強豪を相手に団体、個人の2冠を獲得。158センチと小柄な男が大男を小技で圧倒した優勝は、ゴルフ人気を一気に爆発させたとのことです。
1950年代(昭和25年〜35年)は、中村寅吉一色に塗られました。日本オープン3勝、日本プロ4勝、関東オープン7勝、関東プロ3勝。ほとんどが50年代です。
これを機に戦後のゴルフブームに火がつき大衆化へと進んでいきました。さらに日本女子プロゴルフ協会設立に貢献し、初代会長に就きました。樋口久子は愛弟子。トラさんと呼ばれて、後輩たちにも親しまれました。
この頃オープンしたゴルフ場
昭和32年オープンゴルフ場 赤羽GC、茅ヶ崎GC
“ 33年 ” 青梅GC、高坂CC
“ 34年 ” 立川国際CC、府中CC、厚木国際CC、磯子CC、大宮GC、
狭山GC、飯能GC、武蔵CC
昭和35年以降もゴルフ場が急増しました。
昭和39年オープン久邇CC(埼玉県)会員募集中・弊社が募集協力
「寅さん」の活躍した時代は「高度成長期」
高度成長期とは、1950年(昭和25年)代から1970年(昭和45年)代の二十数年間の、経済成長率が年平均10パーセントを越えた時期をさします。この時期の日本では、技術革新により新産業が生まれ、生産技術が飛躍的に向上する一方、労働力にも恵まれ、生産された製品は国外へ大量に輸出されています。そして高度成長期を境に、日本の国民生活は大衆的規模で上昇しました。政府の所得倍増計画が実現し、家庭には電化製品がつぎつぎに導入されるなど、生活も大きく変化したのです。
列島改造ブームでゴルフ会員権高騰、ゴルフ場建設ブームに
日本列島改造論は田中角栄が自民党総裁選を、翌月に控えた、1972年(昭和47年)6月11日に発表したマニフェスト。翌月の田中の総理総裁就任にともない88万部の売り上げを記録するベストセラーとなりました。
その主旨は、高度成長期に発生した都市部の人口過密・公害・物価上昇や農村の過疎化といった問題を解消するため、工業地帯の再配置や交通・情報通信網の整備をテコに、人やモノの流れを大都市から地方に逆流させ「地方分散」を推進するというもの。この計画に触発されて、開発をあてこんだ土建業者や不動産業者などが土地投機に走り全国的に地価が高騰しました。
この頃「トラさん」に代わってスターとなった「ジャンボ尾崎」の活躍などでさらに、ゴルフ人口が増え、列島改造ブームでゴルフ会員権が投機対象になり、会員権が高騰、ゴルフ場建設ブームとなりました。
1973年(昭和48年)のオイル・ショックとともに、列島改造ブームが沈静化、高度成長期は終焉を迎えました。
第1次、第2次オイルショックがきっかけでゴルフ会員権相場が急落、会員権相場が長期低迷に入りました。
第2次ゴルフブームはジャンボ尾崎が活躍
尾崎将司は野球から、プロゴルフ転向、長年にわたり日本のゴルフ界をリードして来ました。
1971年(昭和46年)の日本プロゴルフ選手権で初優勝を飾ると、1973年(昭和48年)のマスターズゴルフトーナメントで東洋人初となる8位入賞を果たし、1974年の日本オープンゴルフ選手権も勝ち、破竹の勢いで日本プロゴルフ界のスーパーヒーローとして名を高め、同世代のライバルの青木功、そして中嶋常幸と並び称されて「AON」時代を築いて来ました。
1996年(平成8年)11月17日ダンロップフェニックスオープンで3連覇を達成、プロ通算100勝をあげました。
ジャンボ尾崎はゴルフ人気を牽引、ゴルフ人口は1千万人を超え大衆化し、底辺に広がりました。
バブル経済の崩壊
ジャンボ尾崎の活躍が続いた1980年代後半(昭和60年〜)の日本は、まさにバブル経済全盛期でした。銀行の過剰融資により地価が急騰、さらに企業がその土地を担保に借金して株に投資したため、株価も急騰したのです。
ゴルフ人口が増加しました。またゴルフ会員権が暴騰、会員募集すると会員権が飛ぶように売れ、ゴルフ場開発が全国的に盛んになりました。
しかし90年代に入ると、金融引き締めや土地融資の規制強化などで地価上昇に歯止めがかけられ、バブル経済も崩壊しました。首都圏の地価は下落へと転じ、株価も低迷するなど、かつて日本を支配した「地価も株価も下がることはない」という神話を覆したのです。
ゴルフ会員権相場も預託金の金額以下に急激に値下がりし、預託金返還請求が相次ぎました。預託金を返還できず、約740コースが倒産しました。
預託金制←ご参照下さい。
尾崎も2005年(平成17年)11月1日、東京地裁に民事再生法適用の手続きを申し立てて、破綻していたことが発覚しました。
日本経済と同じく、バブル経済の崩壊に尾崎も飲みこまれました。
第3次ブームは石川遼がつくる?
女子プロトーナメントは
宮里藍
2004年、年間獲得賞金額が1億円を突破。国内女子ツアーでは不動裕理以来2人目の快挙を達成しました。この年賞金女王は逃しましたが、ツアー5勝を挙げ、賞金ランキング2位。
上田桃子(2007年賞金女王)
などの活躍で復活致しました。
男子プロは尾崎に代わるスーパースター不在のせいか低迷が続いていました。
入場者減、トーナメントの数も一時減少しました。
昨年2007年(平成19年)5月、当時アマチュア15歳でプロトーナメント(マンシングウエアKSB)で優勝。石川遼は彗星のようなデビューを果たしました。
石川遼が出場したトーナメントでは大幅な入場者増を記録しました。
テレビ中継も二桁の大台が確実視されております。
本年の開幕戦、東建ホームメートカップで最終日首位タイでスタート、崩れましたが、5位は実力の証明となりました。
16歳の若さ、甘いルックス、並み居るプロを押しのけ1位の平均飛距離270ヤードの実力。
スーパースターの要素が揃っているようです。
戦後のゴルフブームをつくった中村寅吉、ジャンボ尾崎以上のスーパースターに育ち、ゴルフ人気・ゴルフブームをつくって欲しいと思います。、
ゴルフ会員権業者である筆者の願いでもあります。
(以上wikipedia記事を参考に構成しました)